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TSUCHIYA CAR'S

TSUCHIYA CAR'S TOTAL CAR LIFE DEALER SINCE 1969

ツチヤの歴史は、業界の歴史ーツチヤ自動車、半世紀の追体験。

日本の中古車販売事業を黎明期から支え、同業者と共に市場を作ってきたツチヤ自動車。業界を変えるエポックを数々築き、「ツチヤの歴史は、中古車販売の歴史である」とも言われる。創業者 土屋正己とツチヤ自動車の、半世紀を紐解く。

土屋正己、25歳
新車ディーラーを経験した後、
青雲の志で、
中古車販売事業に乗り出す

1962年(昭和37年)、高校を卒業した土屋正己は、トヨタ系の新車ディーラーへ就職した。運転免許証すら持っていない土屋だったが、営業成績は好調。東京向島界隈を、靴底をすり減らしながら歩きまわる日々だった。 数年後、中古車を扱う部署に異動となると、すぐにその魅力に取りつかれた。新車販売においては、値引き可能な範囲は分かっても実際の原価は分からない。だが中古車であれば仕入れ値と売値が明確で、自分がどれだけの利益を生み出したのかがハッキリしていた。「これぞ商売だ」と思った。このときの体験が、後々独立するきっかけとなる。
新車ディーラーでの中古車販売経験をもとに、土屋正己はついに独立を決意した。新車、中古車問わず、時代は自動車を欲していた。新車が好調に売れていくと、それに合わせて中古車も市場に出回る。放っておくとすぐにディーラーの駐車場が中古車で溢れてしまうような、そんな時代だった。1969年(昭和44年)、東京都葛飾区新小岩にて、ツチヤ自動車の前身となる土屋自動車販売が設立された。
土屋と同じく、中古車販売業を始めた仲間は数多くいた。いつからか、同業者同士で毎週集まるようになり、次第にオークションが行なわれるように。毎週のように、40~50台に及ぶ中古車が取引された。とはいっても、実物を持ち寄るのは物理的に困難だったこともあり、主に書類上での取引。いわゆる“ペーパーオークション”である。これが後々、オートオークション会場設立へと繋がっていく。現在のオートオークションの源流は、このときすでに生まれていたのだ。

サラリーマン月収が2〜3万円?

高度経済成長が続く当時の日本。新車需要の高まりと同時に、中古車需要も伸びていました。その販売価格はおよそ20万〜50万円程度。サラリーマンの月収が2〜3万円であり、今のようにローン制度も無い時代でしたが、それでも販売は好調でした。「白いクラウン」のキャッチコピーで、トヨタ・クラウンがCMされたのもこの頃。それまでは、高級車であるクラウンは法人利用が多く、「法人=黒塗り」のイメージでしたが、“白いセダン”は、「個人利用」の象徴。個人でも高級車が手に入る時代を反映していたと言えるでしょう。

時代は、
モータリゼーション真っただ中。
試行錯誤の中
事業拡大と業界の発展を目指す。

「中古車販売」という、まだ新しい事業を大きくしていく中で、土屋は、この業界の”影”の部分にも目を向けるようになる。多くの同業者がマジメに商売している一方で、走行メーターを巻き戻したり、事故車を無事故と偽って売りつけたりする悪質な業者が現れていたからだ。
「業界の発展なくして、会社の発展なし」。そう思った土屋は、仲間と共に組織活動をスタートさせる。現在、国内最大の中古車流通組織であるJU(日本中古自動車販売教会連合会)に繋がる動きは、このときに始まっていた。
ツチヤ自動車創業当時から業界仲間が毎週集まって実施していたオークションだが、この頃になるとその規模は更に拡大していた。そこで1972年(昭和47年)、15社からなる東京都中古車卸売事業共同組合を設立。現車オークション事業を本格的に開始した。 
土屋が2店舗目の出店を計画したのは1976年(昭和51年)のこと。場所は船橋市の花輪インター付近。千葉県下には中古車展示場がまだ少なかったことに目をつけ、県内最大級となる1200坪の展示場をオープンした。ツチヤ自動車のお馴染みフレーズ『中古車のデパート』もこのときに誕生し、テレビCMも放送を開始。知名度の上昇に伴って、同業者がマイクロバスで視察に来るなど、話題となった。機を見て大胆な戦略に打って出る土屋正己の本領はこのときから発揮されていたのである。
近畿地方の大手中古車店へ視察に行ったときのこと。土屋はそこで、無料でオイル交換する光景を目の当たりにし、驚きを隠せなかった。「なぜこんなことをやっているのか」そう尋ねる土屋に中古車店の社長は一言「お客様との絆が太くなるから」。
会社に戻ると土屋はすぐに同様のサービスを開始。良いものはすぐに取り入れるのが土屋のモットーだ。結果、お客様との接点が増え、長い信頼関係を育む一助となった。その後、現在に至るまでこのサービスは続いている。
土屋の座右の銘「継続は力なり」を実践した格好だ。

クルマを買う苦労。

時代はモータリゼーションの真っただ中。新車の販売台数は増え続け、それに伴って中古車の流通も増加していきました。
若者を含め、多くの人々にとって自動車はみるみる身近な存在になっていったのです。
一方でこの頃はまだ、支払方法が非常に限られていました。今日のようなオートローンはほぼ存在しておらず、現金一括払いでない場合は「マル専手形」が中心。これは、販売店が作成した「割賦販売証明書」を持って購買者が金融機関に訪れ、24枚・36枚といった約束手形を作ってもらい、そこに署名捺印したものを再び販売店へ渡して、ようやく購入できるというもの。
欲しいモノを手に入れる、それだけのことでも昔は一苦労だったんですね。

機を見るに敏。
堅実に、そして大胆に。
必勝パターンを見出し、
次々と店舗を展開する。

1983年(昭和58年)12月、土屋は4店舗目をオープンした。出店先となる成田周辺は当時、山林に囲まれ閑散としたものだったが、それでもこの土地に決めたのは、1978年に成田空港が完成していたからである。国道が整備され、成田の町全体がいずれ賑わいを見せるだろうと、土屋は確信していた。その予想は見事に現実のものとなり、東関東自動車道の整備、空港関連企業の増加
によるニュータウンの発展、国道51号の4車線化、商業エリアの拡大など、みるみるうちに人の集まる場所となっていった。以来、成田店は30年以上にわたって商売繁盛を続ける店舗である。この成功を皮切りに、1986年(昭和61年)から1989年(平成元年)にかけて、東金店、茂原店、本社市川店と出店ラッシュが続く。
5店舗目となる東金への出店は、土屋にとって特別な想いが伴うものだった。九十九里浜地域は、土屋が生まれ育った地元だったからである。中古車店はもちろん飲食店などもまだ少ないエリアだったが、だからこそ100台以上の展示在庫を置くツチヤ自動車東金店は注目を集め、宣伝効果抜群であった。地元だけに親族・親戚はもちろん、友人・知人など多くの人が来
店し、車を購入してくれた。そのことは土屋にとって"故郷に錦を飾る"ことであり、また、独立して良かったとつくづく思える出来事となった。
「地域の発展性を先読みして出店する」というのが、この頃の土屋の必勝パターンとなっていた。千葉県南東部の茂原市に6店舗目の出店を計画。このエリアを選んだ理由は千葉県外房有料道路が茂原まで伸びたからだった。成田市や東金市と同様の発展を予想したのである。日本経済の強さ、景気の良さといった追い風もあり、営業は順調。茂原店前を走る国道128号も片側1車線から2車線へと変わり、市内に大型ショッピングセンターが次々と出来て賑わいを見せるようになった。またしても土屋の読みが当たったのである。
いつか立派な本社社屋を建てようという想いを、土屋はかねてから持っていた。いよいよそのときが訪れたのである。時代はバブル景気の絶頂期。ツチヤ自動車の業績も絶好調と呼べるものだったが、バブル熱に浮かされての本社新築ではなかった。「堅実に、そして大胆に」が土屋の持論。建設予定地はすでに以前から手に入れていたのだ。例によって、そのエリアの発展性を見越して用意されていた計画である。
「社屋を建てるこの土地は近い将来、市川市郊外で一番の交差点になる」。その予測はまたも当たり、有料道路が無料化するなどして交通量が増え、周囲には飲食店舗などが次々と増えていった。広い展示場と「中古車のデパート」と書かれた大きな看板は付近の目印となり、今ではここを"ツチヤ交差点"と呼ぶ人も少なくない。

バブル景気がやってきた!

バブル経済の到来によって、300~500万円の新車が飛ぶように売れた時代。この頃になるとクレジット業界の規制緩和もあり、オートローンの利用が急増しました。
"ローンを組めるだけ組んで、良い車に乗る"といったスタイルが当たり前に。さらには、1回目の車検すら通さず新車に買い替えるという、ものすごい時代でした。「24時間営業の中古車販売店」といった業態も登場しています。
トヨタのセリカやソアラ、日産のシルビアやGT-R、ホンダのプレリュード、マツダRX-7、三菱GTOなど、ツードアハードトップやスポーツカーが人気を博し、若者の購買層も増加。当時は"自分のメシを我慢しても、車にメシ(=ガソリン)を食わせる"といったことが、冗談交じりに言われたりしました。

土屋正己が、
業界団体の会長に就任。
業界の発展に向けた
挑戦が始まる。

出店ラッシュを経て、ツチヤ自動車はさらなる顧客満足を追求するべく、市川店に「認証工場」を保有することに至った。認証工場とは、地方運輸局長が「自動車の分解整備」を認めた整備工場のこと。この認証を受けなければ、分解整備はできないのである。これによってツチヤ自動車は、販売を行うだけの"中古車ディーラー"ではなく、自動車販売後も顧客のカーライフにより深く関わる企業へとさらに進化を遂げていく。
ツチヤ自動車創業当時から、中古車販売業界全体の発展に尽くしてきた土屋正己は、この年、JU東京(東京都中古自動車販売協会)の会長および同商工組合理事長に就任した。JU東京とは、業界の近代化や取引慣行の適正化を推進するJU(日本中古自動車販売協会連合会)グループの一つ。特にJU東京はグループの中でも革新的な取り組みに積極的な組織である。JU東京が持つ"進取の気性"は、土屋正己の会長就任によって、以後さらに加速することになる。
「業界の発展に寄与する」という土屋の想いは、JU東京の会長就任後に加速度的に増していた。この年には、現行の封印受託業務を本格的にスタートさせる。「封印」とは、ナンバープレートを留めるボルトに被せたアルミ製のキャップのこと。しかるべき手続きを踏んでナンバープレートが取得されたことの証であり、不正を防ぐ目的のある「封印」は、従来は陸運支局まで車両を持ち込まなければ取り付けることができなかった。
かなりの時間と労力を費やすため、手続きの簡略化が望まれていたのである。その封印業務を受託する試みを1990年頃から段階的に続けてきたJU(日本中古自動車販売協会連合会)と、JU東京の会長である土屋は、ついにこの年、
受託事業を本格開始させたのだった。これにより封印業務のスリム化が実現しただけなく、自動車販売事業者にとっては代行手数料による新たな事業収益を得ることとなり、Win-Winの関係をもたらすこととなった。

バブルの終焉と、新しい時代の到来。

1990年代の初めにバブル景気は終焉を迎えました。中古自動車の販売単価は下がり、ローンによる購入も減少したものの、根強い人気を誇ったのが4WD(四輪駆動車)。現在のようにSUVといった呼称はまだなく、クロスカントリー、略して"クロカン"と呼ばれていました。トヨタサーフや日産テラノ、スズキエスクード、いすゞビッグホーンなどが人気車種として販売を伸ばします。その後、アストロやカプリスといった大型の"アメ車"人気にも火がつきますが、ガソリン価格の高騰に伴って燃費の良い日本車に再び注目が集まることに。現在に至るまでの国産ワンボックスカー人気、ステーションワゴン人気へと繋がっていきます。日産エルグランドやトヨタエスティマ、スバルレガシィなどがそれです。
中古自動車販売業界に、大手チェーン店が台頭してきたのもこの頃。「クルマ買い取り」をアピールする業態も急増しました。

業界の発展に向けた
取り組みが結実。
そして、ツチヤ自動車は
新たなステージへ。

「走行距離」と「事故歴」の詐称。この2つの撲滅が、中古自動車販売業界にとって永遠のテーマだと土屋正己は常々考えていた。創業以来、ツチヤ自動車では事故車は一切取り扱わず、また、2002年には自らが関わるオートオークション場に走行メーター管理システムを導入し、取引を行った全車両についてデータを記録する仕組みを導入した。のみならず、JU東京の会長である土屋は常に車検証のコピーを背広の内ポケットに忍ばせ、関係官庁の人間に会うたびにコピー用紙を広げては、車検証に走行距離歴を入れるように進言してきた。その努力はこの年、とうとう実を結ぶ。車検証に走行距離が記載されるようになるのである。
業界の発展に尽力してきた土屋に対して、数々の表彰がなされたのがこの頃だった。2002年には、関東運輸局長より陸運及び観光関係部外功労者表彰を、石原慎太郎東京都知事(当時)より東京都功労者表彰をそれぞれ受章。2003年には、国土交通大臣より自動車関係功労者表彰を受章し、翌年には環境指向型事業者東京運輸支局長表彰を受賞した。そして2004年、天皇陛下より黄綬褒章を授与される。長年の努力が報われる瞬間だった。
ツチヤ自動車にとって久しぶりとなる新店、千葉北店がオープンした。同店では、ツチヤ自動車の今後を占う新たな試みがスタートしていた。関東運輸局指定工場を取得したのである。「指定工場」とは設備・技術・管理組織等について一定の基準に適合している工場に与えられるものであり、これによっていわゆる「民間車検」が可能になったのである。『カーライフパートナー』の実践が、また一つなされたのだった。

多様化する中古車市場。

ガソリン価格は高騰を続け、その影響からか、燃費性能が高い小型車に注目が集まり始めた時代。
トヨタヴィッツやホンダフィットなどの小型車人気は、この頃から始まりました。
また、1998年の規格改定により車体が大型化した軽自動車も次第に人気となり、スズキワゴンRやダイハツムーブといったヒット車種が誕生。
エコノミーカーの流行はワンボックス車にも広がり、2000CCクラスのミニバンブームが到来しました。
一方で、ドイツ輸入車がその勢いを増し、エコロジーカーでもあるHV車(ハイブリッドカー)も普及するなど、多様な市場となっていきました。

自動車を取り巻く環境の変化と、
ツチヤ自動車の変化。
次の50年に向かって。

2014年 創業45年を超えたツチヤ自動車に。2016年初春、再び嬉しいニュースがもたらされた。社長 土屋正己の旭日双光章の叙勲である。2度目となる、勲章授与に、これまでツチヤ自動車を長きに渡り支えて下さったお客様、社員、お取引先、関係各所に対する深い感謝の念と、企業理念である「革新への挑戦」を新たに誓う機会となった。

着実に事業の充実を図るツチヤ自動車も、創業からもうすぐ半世紀。この間に自動車販売を取り巻く環境は目まぐるしく変化してきた。クルマと人々との在り方が変わっていく中で、ツチヤ自動車の変革は今後も続いていく。最終的に目指しているのは、地域に根差し、どんなことでもお客様の役に立てる企業になること。 長くお取り引きいただいたお客様がある日、何らかの事情で、クルマに乗らなくなったそのとき、クルマの代わりに、どんな価値を提供できるだろう。

そんなことまで、ツチヤ自動車は考え始めています。
創業50周年を経て、100年企業になるために。

  • 頼れる先輩がいる!

  • 成長できる!

  • 職場が明るい

  • 商品に自信がある!

  • 研修制度が充実!

  • 世話好きの人が多い

  • チームワークがいい

  • 失敗から学べる

  • お客様に頼られる

  • 社員旅行が楽しい

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